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鈴木雅彦作品集 その2 |
ここに紹介するのは、津市が平和月間の中で開催している「市民のつどい」に、戦争展実行委員会が協力出演した「朗読劇」の戯曲です。名前は変えてありますが、津市の空襲で実際に被害に遭われた方の実話に基づいています。 |
朗読劇「戦争は私からたくさんのものを奪っていった」 ―――石田ハルさんの生涯――― |
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子ども どうしたの、おばあちゃん。 ハ ル (優しく)ん、どうかしたかい。 子ども おばあちゃん、今日は変だよ。 ハ ル そうか、そうか、おばあちゃんのこと、心配してくれるんだね、優しい子だねえ。 子ども また、思い出してたんでしょう。 ハ ル ああ、楽しかったことはどんどん忘れてしまうのに、辛かったことはいつまでも、いつまでも忘れられなくてねぇ。 子ども 今日は7月28日だもんね。 ハ ル 地獄だったねえ。61年前、夜中の空襲で津の街はすっかり焼けてしまってね、このあたりからも海が見えるんだよ。それぐらい何もかも焼けてしまったのさ。でも、もうこの話は何度も聞いたよねぇ。 子ども もう一回聞かせて、おばあちゃん。 ハ ル ホントにやさしい子だ、いつでもおばあちゃんの話を聞いてくれるんだねぇ。じゃあ、もう一遍、聞いてもらおうかねぇ。 語 り 石田ハルさんは1916年、大正5年、梅がほころび、やがて桜も花開こうとする春の気配いっぱいの3月に生まれました。名前の由来も、その辺りにあったのかもしれません。 決して豊かではありませんでしたが、ハルさんはみんなに可愛がられ、幸せに暮らしていました。ところが小学校へ入学してまもなく、お母さんが亡くなり、その翌年には追うようにしてお父さんが亡くなりました。 両親を失ったハルさんは母方の叔母を頼りにしていました。叔母さんもハルさんを我が子のように大事に可愛がってくれました。 ハルさんが14歳で尋常高等小学校を卒業する頃、満州事変が起き、平和だった世の中は、次第に戦争の時代になっていきました。 ナレーター 1925年、治安維持法制定。 1928年、特高警察を全国に配置。 1929年、治安維持法に反対した代議士、山本宣二暗殺。 1931年、いわゆる「満州事変」により、15年にわたる中国への侵略戦争が始まる。 1933年、日本は国際連盟脱退。 1938年、国家総動員法制定。 語 り やがてハルさんは25歳、美しい、しっかりした娘さんになりました。叔母さんは、両親がいたらもっと早くお嫁に行くのにと、気をもみました。 中国との戦争は長引くばかりです。戦争に行かなくていい人で、似合いの人はないものかと、叔母さんはつてを頼って探しました。そんな中で、いい人が見つかりました。一度戦争に行って帰ってきた人です。「一度行ったのだから、もう戦争に行くことはないだろう」叔母さんも親類の人もそう思いました。 そして、ハルさんは1941年、昭和16年の秋、25歳で、津市神戸の農家、石田常雄さんの元に嫁ぎました。 子ども その人はどんな人だったの? ハ ル 穏やかで優しい人だったよ。 子ども 幸せだった? ハ ル そりゃあ、幸せだったよ。おばあちゃんにはお父さんもお母さんもいないだろ。 子ども うん。 ハ ル だから新しい家族ができてうれしかったんだねえ。ただね、中国と戦争してたから、それがちょっと気がかりだったねぇ。 語 り ハルさんが結婚して3ヶ月後、日本はハワイの真珠湾に奇襲攻撃をかけ、太平洋戦争が始まりました。中国との戦争に加えてアメリカやイギリスとの戦争です。 村の男たちにも召集令状が来て、次々に戦地へ送られていきました。そして、ハルさんの夫、石田常雄さんにも2度目の召集令状が来たのでした。結婚して半年、みんなに送られて、久居の33連隊に入営しました。 ナレーター 1939年、ナチスドイツがポーランドに侵攻、イギリス・フランスがドイツに宣戦を布告、第2次世界大戦勃発。 1941年12月、日本軍の真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争勃発。 語 り ハルさんは甘いものが大好きな常雄さんに、おはぎを持って面会に行きました。面会室がいっぱいだったので、外の木の根っこに腰を下ろして話し合いました。 家族は元気で変わりないこと、近所の人に配給の砂糖を分けてもらっておはぎを作ったことを話しましたが、ほかにどんなことを話したのか、あまり覚えていません。ただ、うれしそうにおはぎを食べていた常雄さんの笑顔だけが記憶に残りました。 あんなに喜んでくれるのならと、ハルさんは再びおはぎを作って面会に出かけました。しかし、すでに常雄さんの部隊は戦場へ出発したあとでした。 子ども おじいちゃんは? ハ ル 1年たっても、2年たっても、おじいちゃんは帰ってこない。どこにいるのか、大丈夫なのか、な~んにも分からなくてねえ。 子ども 寂しかった? ハ ル そりゃあ、心細いし、心配だし。ちょうどそんな時だよ、サイパン島が全滅したって聞いてね。 子ども 全滅? ハ ル 島にいた人たちがみんな死んだと聞いて、もう心配で心配で。でもおじいちゃんはどこにいるのか分からないしね。ところがその年の10月だよ、役場から知らせが来てね、2月にニューブリテン島で戦死したって言うじゃないか。 子ども 戦死? ハ ル 悲しかったけど、口には出せないんだよ。 子ども どうして? ハ ル お国のために死んだんだから、名誉なことだと、喜ばなくてはいけない時代だったんだよ。 子ども 死んじゃったのに喜ぶの? ハ ル ああ、子どもが死んでも、夫が死んでも、お国のためと喜ぶのが、「靖国の母」なのさ。 子ども 靖国の母? ハ ル そう、靖国の母。 語 り 1945年4月7日のことです。桜が咲いて穏やかな日でしたが、空襲警報が発令されていました。ハルさんはいつものように常雄さんのお姉さんと畑で 野良仕事をしていました。 その時、アメリカ軍の爆撃機B29が頭上を通過、神戸地区に10発の爆弾を投下しました。 ゴォー、ドドーン 激しい地響き、砂煙が立ち上り、周囲は大混乱、ハルさんもお姉さんも地面に叩き付けられました。 しばらくしてハルさんは右腕に強い痛みを感じました。どうにかして立ち上がったハルさんの右腕からは、真っ赤な血が、水道から水が出るように噴き出しています。気丈なハルさんは頭にかぶっていた手ぬぐいで強く縛って血止めをしました。足元に倒れているお姉さんは手足をピクピク動かしているだけ で、口もききません。即死でした。 ハルさんは血だらけで家の方へ走りました。近所の人たちが駆け寄ってきたとき、気を失って倒れてしまいました。近所の人が大八車に乗せて病院へ運びました。 ハルさんの右腕には爆弾の破片が命中していて、骨が砕けていました。すぐに切断しなくては命が危ない、ということで手術が始まりました。気を失っていたハルさんでしたが、あまりの痛さに耐えられませんでした。 ハ ル 痛い!痛い!殺して!私を殺して! 語 り 何人もの男の人がハルさんの手足を押さえつけて、手術を続けました。 子ども そんなに痛かったの? ハ ル それがねぇ、当時は何もかも不足していて、手術だって麻酔がなかったんだよ。麻酔をしないで、腕を切るんだからね、そりゃあ、痛いって言葉じゃ、とても表せないよ。 語 り 手術は成功して一命を取り留めました。やがて傷口も癒えました。でも、右腕は肩の下からなくなりました。 ナレーター 1945年3月12日、名古屋を空襲したB29の編隊が津市上空で数発の爆弾を阿漕浦に投下、さらに小型機が機銃掃射。これが津市における初めての空襲だった。 3月19日の夜明け前、B29が長岡町に爆弾を投下、工場からの夜勤帰りの男性が死亡、空襲による最初の犠牲者である。 4月7日、3機のB29が神戸地区に10発の爆弾を投下。死者26名、重傷者32名、ついに本格的に空襲が始まった。 6月26日、午前10時頃、橋北・橋南地区の軍需工場が狙われ、250発もの爆弾が投下された。死者約600名。 7月16日、P51数機の機銃掃射により4名が死亡。 7月24日、午前10時頃、B29の編隊約70機が住宅密集地に無差別爆撃、津市における空襲で最悪の犠牲を生み、約1300名が死亡した。この日、美杉村においても爆弾が山中に落とされ、大人1名、子ども6名が死亡した。 4日後、7月28日から29日にかけての深夜、B29の編隊約80機が、焼夷弾による空襲をおこなった。一夜にして津市は市街地の8割が焼き尽くされ、約600名の住民が犠牲となった。 語 り ハルさんは病院へ通うたびに、叔母さんの家に立ち寄りました。ハルさんにとって、これが唯一の楽しみでした。叔母さんはハルさんをそっと抱いては泣きました。食べるもののない中で、「これでもおあがり」と、炒り豆や干しイモを出して、不憫なハルさんを慰めるのでしたが、その叔母さんも7月24日の空襲で亡くなりました。 結婚して半年、常雄さんは二度目の戦争に行って戦死、家を守っていたハルさんは右腕切断、常雄さんのお姉さんは爆弾で即死、ハルさんのお兄さんも戦死、そして叔母さんも爆死、右腕の傷は癒えたものの、ハルさんの心の中は傷だらけでした。 ハ ル 不幸な星のもとに生まれたもんだねえ。 子ども もし戦争がなかったら、私も生まれて、おばあちゃんと暮らせたのに。 ハ ル そうだねえ、戦争がなかったら、息子か娘が生まれて、その子が結婚して、お前が私の孫として生まれてくるはずだったのにねえ。 子ども わたし、生まれたかった、この世に生きてみたかった、おばあちゃんと暮らしたかった。 ハ ル おばあちゃんもね、お前に生まれて欲しかったよ。孫と暮らすこともできないなんて、やだねえ、戦争は。私のような女を二度と出さない世の中にして欲しい、このささやかな望み、叶うかねえ。 子ども わたし、信じたい。 語 り 晩年、ハルさんは嫁ぎ先の家や近所の人たちに支えられて、左手で文字を書き、鍬を持って花を作り、元気に暮らしました。そうして、1996年、80歳でその生涯を閉じました。 |
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